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2011年 10月 05日
2011年7月25日から30日まで、やまんB・アート実行委員会主催「高原夏のアトリエ」にACCは協力団体として参加いたしました。「高原夏のアトリエ」は放射線被害の下での生活を余儀なくされている福島県の小学生を対象にしたアートキャンプで、参加者は福島市、相馬市、伊達市、郡山市からの小学3年生から6年生の男女それぞれ4名ずつの子どもたちでした。宿泊場所は長野県諏訪郡原村にある個人所有の別荘だったため、受け入れ人数は8名が限界でした。
キャンプ中、福島の子どもたちはみな明るく元気でのびのびと遊んでいました。しかし、放射能に対する彼らの不安、憤りを決定的に感じる瞬間もありました。 キャンプ最終日前日、7月29日の朝の食卓での出来事です。 牛乳を飲んでいた子どもたちが学校給食で出される牛乳の話を始めました。 何気ない会話が次第に熱を帯びて、学級会のような話し合いになりました。 小学4年生のカズマ君は「危ない牛乳は絶対に飲みたくない。俺の学校はみんな飲んでない。先生も飲むなって言ってる。入っている量がほんの少しでも、毎日飲んでいたら絶対に危ないんだ」と、今にも誰かに殴りかかりそうな勢いで声を張り上げました。 小学6年生のマコト君は「セシウムが入ってる牛乳をずっと飲んでるとガンになったり奇形児が生まれたりするんだよ。だから僕も飲まない」と強い口調で言いました。 小学6年のハナちゃんは「私は牛乳を飲んでる。私の学校はみんな牛乳を飲んでいるもん。牛を飼っている人にも生活があるんだし、仕事がなくなったらかわいそうだよ。私は福島が好きだから」と、怒鳴るように言いました。でもハナちゃんはセシウムが安全であるとは一言も口にしませんでした。 3人はみな郡山市在住ですが、通っている学校は異なります。放射性物質からどのように身の安全を守るのかという重要な問題が、学校や教師任せになっているようです。 朝食が終わっても話し合いは続きました。他の子どもたちも漫画を読んだり、スタッフが連れてきた犬をなでたりしながら静かに3人の話し合いを聞いていました。普段なら食事が終わったら思い思いの場所で自由に遊び始めるのに、その時は誰もその場を離れませんでした。時々、自分の意見を発言していたので、他の5人の子どもたちも3人の話し合いを真剣に聞いていたのだと思います。 でも結局、どうするのが正解なのか答えは出ませんでした。 私は敢えて話し合いに加わりませんでした。いえ、正確には涙をこらえるのに精一杯で加われませんでした。 なぜこんなに小さな子どもたちが放射能汚染されているかもしれない牛乳を飲むか飲まないかについて真剣に議論しなければならないのでしょうか?なぜ将来的に自分の体が蝕まれていくことを知りながら、まだ11歳の少女が大人の心配をしながら飲み物や食べ物を口にしなければならないのでしょうか? 「もう怖いから考えるのイヤ!何も考えたくない」とハナちゃんは最後に呟きました。 私は焦り、懇願しました。「怖いかもしれないけど、お願いだからあきらめないで」と。 彼女は「うん」と頷き、上目遣いに私を見つめました。その瞳はとても不安そうでしたが、きらきらと輝いていました。 7月30日。キャンプ最終日。子どもたちはスタッフ全員に絵手紙をくれました。 「私たちのことを世話してくれて、ありがとうございました。離れていても心はひとつ。私たちだって原発なんかに負けるものか!」と、ハナちゃんの絵手紙には書かれていました。 その言葉を読んだ瞬間、私は今まで抑えていたものを堰き止められなくなって、子どもたちの前で声を上げて泣いてしまいました。子どもたちは心配そうに私を見ていました。ハナちゃんは「なんか怖いよ。泣かないでよ」と慰めてくれました。「ごめん。嬉しくて」とむりやり笑いながら、私は言い訳をしました。しかし本当は、手紙をもらった嬉しさよりも、大きく恐ろしい真っ黒な何かへの怒りと悔しさ、やるせなさのほうが勝っていました。 福島に子どもたちを帰して2カ月以上経ちました。 いまだ福島の原発事故は収束の目処が立っておらず、放射性物質から子どもの健康を守るための具体的な方策も立てられていません。6日間寝食を共にした8人の福島の子どもたち、その後ろにいる何十万人もの福島の子どもたちが放射能の心配をせず健やかに成長できるために、私に何ができるのだろうかと考えずにいられません。 ※子どもたちの名前は仮名です
by hopeacc
| 2011-10-05 12:31
| ACCニュース
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