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2009年 05月 16日
2003年の春、援助の手が届きにくい高齢の女性たちに何かお手伝いは出来ないかと、当時プログラムを検討中だった私たちは、セルビア共和国のブルニャチカ・バニャで暮らすコソボ難民の女性たちとお会いして、話を聞く機会をもった。スラボイカさんはその女性たちの中でも、一番の高齢だった。その頃で既に80歳近かったと思う。 これまで多くの難民となった人々と出会い、話を聞かせてもらってきた。無理からぬことだが難民の人たちと話すと、ここに至るまでの体験と現在の生活の苦しさを綿々と訴えることが多い。しかしあの日出会ったおばあさんたちの殆どは、淡々と出身地や昔の職業を話すだけだった。だが、最後に必ず付け加えることがあった。「ここに来てから4年になります」。NATO軍の激しい空爆により終結した、1999年のコソボ紛争である。しかし彼女たちはそのことを直接的には語らない。ただ「4年になります」という言葉に、その歳月の意味を託していたのかもしれない。背筋を伸ばした、毅然とした姿が美しかった。かたくなな孤立とは無縁の、凛とした自律というのだろうか。おばあさんたちが醸し出す言葉では表現しがたい何かに心うたれる思いでいたことを、私は昨日のことのようにおぼえている。 2003年の秋、ACCの「おばあさんの手」プログラムが正式に始まった。日本から送られた色とりどりの毛糸を前に、それぞれが思いのままに手を伸ばそうとした時、「まあまあ、落ち着いて。皆で何を作るか決めてから、重ならないように考えて、ふさわしい糸をいただきましょう。」とはやる仲間を制したのはスラボイカさんだった。ACCのメンバーが訪れる度に、スラボイカさんは集まりに出てきてくれた。若い頃から中年を過ぎるまで工場で働きながら家庭を育んだというスラボイカさん、コソボから逃げるとき「これだけを持ってきました」と、若き日に自分で織った布地をみせてくれたこともあった。ある時はコソボの民謡を歌いながら、編み物の手を動かしていた。2007年3月、もう随分弱っていたスラボイカさんだが、それでも家族に付き添われてACCとのワークショップに来てくれた。「今日は皆さんにお会いできて、本当にいい日。20年前、娘を亡くしてから、こんなにいい日はなかった。」と別れ際に元気な声で言っていたスラボイカさんの姿を思い出す。それが最後だった。スラボイカさんはその年の夏、この世を去った。いつものように穏やかな一日を送り、「おばあさんの手」の作品に針を通したまま「続きは明日にするわ。」と言って晩の祈りを捧げ、眠りについたまま目覚めることない静かな最後だったと聞いた。 初対面の席で散会の時、スラボイカさんは言った。「今まで私はひとりでこの場に立ち尽くしているように感じてきました。でも、今こうしてあなたたちが来てくれた。私たちの後ろには、私たちのために立ってくれている人たちがいることを知りました。」その言葉はずっと心の中に残っている。あれから時が過ぎた今、私は思う。立っていたのは私たちではなく、おばあさんたちだったのではないかと。私たちに何か大切なことを教えてくれるために、私たちの後ろにおばあさんたちが立っていてくれたように思えるのだ。 スラボイカさんの手仕事は素朴で、丁寧で、あたたかだった。葬儀のとき、ご子息が挨拶の最後にこう言ってくれたという。「高齢で難民となった母の人生には苦難が多くありました。しかし人生の最後に、日本の皆さんと交流し、その関わりを通して自分の作品が日本で紹介されたことは、母の最晩年の幸福であり、誇りでした。」 たくさん皺が刻まれたスラボイカさんの顔はまっすぐな眼差しで、本当に美しかった。スラボイカさんだけではない。「おばあさんの手」の参加者では、コソボでロシア語の教師をしていたというヨバンカさん、スラボイカさんの次に高齢だったラドミラさんが亡くなっているが、皆味わいのある、深い表情を持つ女性たちだった。そして今も元気に、ブルニャチカ・バニャで「おばあさんの手」に参加している難民のおばあさんたち。「おばあさんの手」は、こうした人々の心から生み出され、存在しているのだと思う。このプログラムを支えて下さる方々に、心から感謝している。 (松永 知恵子、 ACC代表)
by hopeacc
| 2009-05-16 01:31
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